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シャム猫ぽこ様近影、「言いたい放題」は若かりし頃 2016-01-22 [好きな言葉や拙見]

実家のシャム猫ぽこ様の近影
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シャム猫ぽこ様は、老母がご近所の猫おばさまから貰った雑種猫ですが、
この毛並みとサファイアブルーの目は、タイの高貴な家系のみで飼うことを許されたシャム猫の再来に違いないと看破したぼくが勝手に付けた呼び方。
なのに、心無き鄙人たちからはタヌキなどと呼ばれております。
amaguri家のプリッツエル王子と生物学的には親戚の可能性大。
卵巣を取られ、わが子に先立たれた後は、童女に戻って悠々自適、
いっとき毒婦木嶋佳苗のような太り方をしていた時期があったのですが、
今は「科捜研の女」沢口靖子さま(無双無敵の永遠の美少女(^O^)の趣きに。 
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と褒めた途端に、オペラ歌手の中島啓江(けいこ)さんか森公美子さんに?


ojiojiの言いたい放題(=^ω^=)

畑正憲さん、高校時代に生物の先生から勧められた「われら動物みな兄弟」が最初の出会いで、今回書かれていたのと同じような思いを抱いた作家です。子どもの頃から生き物大好きの私は、畑正憲さんの本にすっかり夢中でした。テレビでの馴染みはないのですが、エッセイを通じて、とても近い人のような気がしていました。中学・高校と北杜夫が好きで、そこに割り込んだ畑正憲氏の、好きな生き方をしている世界は本当に魅力的。社会人になってから頭から消えていたのに、この記事でぶわーっと甦りました。
学生結婚したのとか完全に畑正憲氏に影響受けてます、失敗でしたが(^^;)
会社を馘首になるくらい経営者批判をしたり、自分で起業したり、たぶんに畑氏の生き方から、何でもありじゃというところを後押ししてもらってたのだなあと今思います。早めに隠退しての今の暮らしもそうです。
ところで、わが家のふーちゃんやみうめは、ゴミをよく食べています。外の世界を知らないから、廊下やじゅうたんの綿ごみや抜け毛などが草や昆虫の代わりなのでしょうか。


おっしゃるとおり「人生は偶然と必然」から成っていると私も思います。必然だけでもなければ、偶然だけで決まるわけでもなく。長年のガーデニングやアクアリウム(メダカや金魚から小型熱帯魚、鯰^^;、草魚...etc.)や昨春からの畑作やたぶん三千名ほどの子どもさんたちとその家庭と懇談してきた経験から言えるのは、
生き物の個体差はとても大きく、
同じ環境下でもさまざまな育ち方をし、
同じ目(過酷な自然や病原菌や教育...etc.)に遭っても真反対の生育をする個体たちが多々、と云うことです。
脱腸が壊死しても再生して生き抜く金魚とか、
たった一本の芽から復活する中国野菜カイラン、
一方では、至れり尽くせりの苗床で発芽後すぐに消える生命、
仕事上の悩み?で農薬を飲んで死んだ一流企業に勤めていた同級生、
資質と生育環境と、地球温暖化の要因と同様、複雑系によって人は形成されるのでしょう。だからこそ、どんな理由があっても犯した罪は償うべしと迷いなく思っております。世の凶悪犯罪がすべて、その覚悟の下で為された正当な復讐だけになればよいのにと思います。実際は、欲望(追記:や衝動)からの凶悪犯罪が大半、何も迷わず判決(厳罰!)をくだせるのになあと。


ロビンソン・クルーソーは小さいころの英雄であり、畑正憲氏には、「子供の頃好きだったことを大人になってからやれば幸せになれる」ということを彼の本から教わりました。「われら動物皆兄弟」の文庫本は40年前に買いましたが、今も書架にあります。数十年紐解いていませんが^^;。その二人について話題にできるなんて数十年振り、何て嬉しいことでしょう。


思っていたとおり、封印された甘美の世界を持たれていましたか。
ボリビアにカブトムシ・ゲリラも暗躍していたとは。
インドからの密輸の話、昆虫たちを思うと怒りの涙が。
齢なのですぐに感情が昂ぶります。
クワガタさん、三年も四年も生きるのですね、
てっきり半年から1年と思い込んでいました。
四年も世話されたクワガタを看取られてご立派です。
田舎だったので、カブトやクワガタは牛の糞や敷きワラの堆肥の山を掘ると、芋虫がごろごろ。カブトを猫と戦わせて、胴体を食われたカブトが頭だけになってからも半日動いていたり、罰当たりなことをしたものです。
ところで、ドウイロクワガタさんを愛せるのに、ゴキブリへの嫌悪、理解しかねます。私が齢とともに、あれ程好きだった女人の鮑を舐められなくなったようなものでしょうか。


1990年代の文科省の新学力観では子どもが主人公でその支援役が教師の役割と明記されているのですが、私は頑として抵抗して、貧しい子にも金持ちの子にも、文化的に恵まれた子にも文化度の低い家庭の子(これが現代日本のゆゆしき課題です、この数十年のテレビではなくてテレビ番組の罪や大なり!)にも、教育とは強制力を伴った訓練であるとの信念で接してきました、そうしなければ、昨今言われているように、家庭の財力によって子どもの学歴が決まるなどという社会になってしまうから。実際、今はそうなっています。そりゃあ親が帰宅して麦酒飲みながらくだらんテレビ番組を見て1年を終える家庭で育つ子と、そうでない家庭の子と、十数年経てば生物的資質が同じでも社会的生物としては天と地ほど違う生き物になります。未熟な子どもたちを鍛えずして迎合して、彼らの将来を無力化した文科省とその諮問機関の罪は大きいと思います。


初めての麦酒の味は、甘いソーダより美味しく感じました。
タバコは、実家が葉たばこ耕作農家(当時は専売品のため換金農産物としては優秀だったのです、そのくせ家族にタバコ吸いは誰もおらず、「タバコは大人になっても吸うな」と言われていました。このあたりが日本的で現代では批判されるでしょうね)だったため、乾燥葉を見様見真似で熟成させて葉巻もどきのものをつくって試してみたところ、日本専売公社のハイライトのような屑葉(実際、等級の低い葉が多くブレンドされていたそうです)の煙とは別世界の甘い煙にくらくらっと酔えました。その愚かさに気付いて煙を断ったのは四十過ぎ。自制的に生きて来たつもりなのに、こうして振り返ってみると、実は欲望のまま自分本位で生きてきたのだなあと気づきました。


一点突破主義で大局観に欠ける私(孫子とちがって全面展開とは行きません)は囲碁が出来ないのですが、親しみを感じます。コンピュータ囲碁について今、Wikipediaを読んだのですが、将棋とは事情がずいぶん異なるみたいですね。石自体に軽重がなくて置かれた場所や形により要石になったりカス石になったりするところや、理詰めとは違った感覚的な要素が大きいところ、盤面の広さなど、コンピュータが克服しなくてはならない課題が多そうです。囲碁のほうが、負けても傷つかないと言われる理由がわかる気がします。将棋に負けると、頭脳が劣っているのを突きつけられたようで、その悔しさと言ったら(^^;)。


昔、勤務していた学習塾がケーブルテレビで高校入試問題解説番組を担当していたときがありまして、なぜか私が社会科を担当、地理の解説で「山陰地方」と言うところを「裏日本」と言ってしまいNG、録り直しに。「裏日本」が放送禁止の差別用語でまずかったそうです。そんな馬鹿な。癪に障って、いつか、裏日本を使ってやるぞと決意。


モロボシダンがのくだりにクスっと。確かに、老母も樫山文枝さんのことをおはなはんと思い込んでいるフシがあります。能年玲奈さんあたりが今後微妙かも。ちなみにモロボシダンは漢字は無いのですね、Google変換に現れず。
耳に洗濯バサミのスポック、爆笑です。私のほうが少し(だいぶ)年上なのでしょう、宇宙大作戦は学生時代深夜テレビで見ていた記憶が。お蔭様でウラやカーク船長...etc.懐かしい場面の数々が甦りました。何より嬉しいのは、カトーさまが未だ存命でいらっしゃること(^_^)。レナード・ニモイ、スパイ大作戦にも出てましたよね。彼がたまに?登場すると嬉しかったものです。いちばん最近では、刑事コロンボの「溶ける糸」の録画で、コロンボの犯人のなかでもトップクラスの悪い医師メイフィールドを演じていました。視ながら応援していたのに、さいごコロンボの誘いに嵌ったのが残念でした。関係無いですが、「溶ける糸」の医師名を確認するのにGoogle検索したら、「会陰切開で溶ける糸を使った人、教えて! -【ママリ】」という記事がトップに。


非道な殺人者の顔も名前も住所も、個人情報保護とか少年法とかマスコミの自主規制とかによって知ることのできない理不尽さ、この情報社会においてあり得ません。それを正すネットの力はまさに「草の根」だと思います。もちろん、どんな効果的な武器も諸刃の剣、だからと言って野球のバットを禁止する社会なんて真平ごめん、上手に活用すればよいだけです。都市部の用水路に意味の無い鉄柵で入れないようにするとか阿呆です。マスコミがネットを批判するときは、自分たちの世界を荒らされて既得権益を失うのが我慢ならないという不純な理由が見え見えで哀れに感じます。晒された人が一生傷つくのは問題だと言われますが、人非人には一生傷ついてもらわなきゃあ困ります。冤罪の場合はネットも出版物もビデオも違いはないかと。


子どもは親と暮らすのがいちばん幸せだという考え、ケース・バイ・ケースだと私も思います。長い子育て期間、家族主義、老後の面倒を子が見る、かつては当たり前だと思っていたしきたりなのですが、猫やいろいろな生き物を見てきて考えが変わりました。家族に囲まれて死にたいなんて勘弁してくれに変わりました。孤独死を現代の悲劇のように新聞で取り上げていたのですが、私は孤独死万歳\(=^ω^=)/。その後の処理体制が大切なだけ。腐って蛆が湧いたら迷惑^^;。いろいろ選択肢のある今の世の中、捨てたものじゃあないです。


猿は狡賢くて、憎ったらしいガキんこと同じ。中には憎めない猿もいるのですが。猿とは縁があって、5歳の頃、岡山県の臥牛山にある備中松山城の猿と仲良くお手をし合っている写真が残っています。当時は猿頭だったみたいです、今や猫頭ですが。京都では近くに嵐山・岩田山自然公園があり、ここが猿山で、正式な入り口ではなく苔寺(西芳寺)のほうからの獣道から無料(清水寺も学生時代はよく出口から只で参拝)で入れたので、侵入して何度か猿と遊びました。猿は子どもの弁当を奪ったりしていました。嵐山の土産物屋さんにも猿が乱入して、店番の女の子(元連れ添い^^;)がハタキで追っ払ったり・・・。何十年振りかで思い出させていただく懐かしい風景がいろいろあります、不思議です。 
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[生き生き毛管体操、別名ゴキブリ体操中のシャム猫ぽこ様] 
 
足るを知らないヒトよりも三年前にいなくなっちゃったウーちゃんに余程親しみを感じるぼくは、現代日本の福祉も医療も病的なくらい過剰と感じています。老母の入院していた病院のリハビリ病棟の病室でも、胃瘻で生かされたコミュニケーションのとれない老婆(生ける屍)、吸痰で辛うじて生を保っている物言えぬ老婆(生ける屍)、病室の戸棚の中にいる(と思っている)夫や娘にひねもす話しかける老婆(生ける気狂い)、そんな彼女たちに、理学療法士が付いて毎日一時間のリハビリ、子どものおやつの量程ある投薬を食事よりも優先して食わせる。膨大な医療保険費。すべては老人福祉の名の下に、年寄りの生の尊厳の蹂躙、老人医療費の垂れ流し、病院も製薬会社も医療産業も儲かる、健康保険料上がる、年寄りの死を日常生活から遠ざけたい国民はそれに乗る、阿呆。猫を見習え。死を覚ったらウーちゃんのように姿を消せ。なのに、もっと福祉を充実させよとの声。驚愕。そういう人たちは、パチンコ中毒とかと一緒で、文化的生活を行政に依存することにのめり込んでいるのでしょう。傍迷惑。一度しかない人生、好きなように生きて、好きなとき死のうよ。悪あがきは止せ。
 

わがままではなく、ありのままに
都市の方も食材の自給を楽しみましょう
読んでくださってありがとうございます(=^・^=)
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