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垂直の登攀ちゃとらん、氷点下5℃(><)、重松清「海まで」 2015-02-09 [好きな言葉や拙見]

夜中に小便に起きたときいつもより冷える気がしていたが、 
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[夜明け直後、庭から梨山を望む] 
夜が明けて外を見ると雪景色。寒い。
国道53号線の温度表示が午前8時で氷点下5℃だったと来訪の方から聞いた。 
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庭池が普段は湧き水があるので凍りにくいのに、今朝は厚い氷が張っていた。
春はまだ遠そうです。 
 
畳で寝る生活の良さを昨日は綴ったが、5時間以上寝ていると腰が痛くてたまらない。ぼくの身体は高級ベッドの高級マットレスに慣れきっている(^o^)。
 
さて、昨日の前振りは、
木天蓼マタタビ(訂正 キウイです、なぜマタタビと書いたか自分でもわかりません、アルコール消毒が過ぎて大脳が萎縮、若しくは、音声会話は猫のみという日が増え脳猫化症が進行したのではないでしょうかの小枝を巡るふーちゃんとちゃとらんの争奪戦だったのです。 
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垂直壁のガラス障子からアプローチするちゃとらんに対して、
スライド式書架の頂上から左にトラバースを狙うふーちゃん、
運動能力だけでなく頭脳戦です。 
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焦るちゃとらん。 
ふーちゃんの頭脳が勝るかと思ったのですが、
この後、敢え無く虚空を踏んで墜落
アイガー北壁ならば森田勝氏のように原形を留めなかったところです。 
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精神的に楽になったちゃとらん、落ち着いてゲット(^^)v
 
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帰還の途につくちゃとらん。
頂上は通過点、ゆめゆめ油断するなよ。
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高所クライマーの死亡事故の7割は下山中。
足が先行するので安全を確認しにくく、踏み外したら滑落。
道に迷いやすいのも下山のとき。 
マタタビの小枝(キウイの小枝)を口に咥えたちゃとらん、
慎重に下方を視認しながら一歩ずつ垂直壁を降下。
 
それくらい飛び降りろよ!」 
 

 
2月7日の記事で三浦哲郎氏「鳥寄せ」を取り上げました。
コメント欄で触れたのですが、青森県八戸市の呉服屋の三男として生まれた三浦氏の前半生は家庭の不幸にこれでもかというほど見舞われ、
長兄 - 家業を手伝っていたが1937年に失踪
次兄 - 三浦の学費を支援していたが、事業に失敗し1950年に失踪
長姉 - 先天性色素欠乏症で弱視、琴を習っていたが1938年に服毒自殺
二姉 - 女子高等師範受験に失敗、1937年に19歳で津軽海峡で投身自殺
三姉 - 先天性色素欠乏症で弱視だったが、琴の師匠となり家計を支えた
(Wikipediaより
それが作品に悲しくも美しく結実しています。
逆境に潰れる人ばかりではないですものね。 

ところで、文学作品の読解を客観テストで問うのは不適切かと思っている私は、共通一次試験会場でこの文章に触れたハマコウさまやニッキーさまや他の受験生たちに同情します(^^)。入試の古文でもかつて、親の臨終の様子を克明に綴った小林一茶の日記が出題されたことがあります。身内を亡くしたての受験生にとっては堪らない気持ちになるのではと心配になります。

三浦哲郎氏の文章は、悲しみの伴う郷愁を誘われるというか、ぼくには経穴(ツボ)で、泣けてしまうので読まないようにしています。塾の新米講師時代に、中学入試で出題された三浦氏の文章に泣けて、ピンと来ていない生徒たちを叱ってお説教したことのある酷い講師でした^^;。
近年の入試出題文では重松清の「海まで」(「小さき者へ」所収)の一節が泣かせます。
ちょっと長いですが、要約と引用にて。

「僕の家族(妻-真理、長男-カズキ、次男-ミツル)は母ひとり住む実家に夏休みを利用して里帰りしているが、母は孫のミツルばかりかわいがり、カズキには冷たい態度をとる。昨日は庭にあったじょうろにつまずき母はスイカを落として割ってしまったが、その日じょうろを使っていたのはカズキだった。 

母が「墓参りに連れて行ってくれんか。お父ちゃんとお母ちゃんの墓参り、何年もしとらんし、これでおしまいかもしれんし」と言った。
実家の墓のことだった。ふるさとの漁村の高台にある。町と海を見渡す眺めのいい場所だが、そこに行くまでの急な階段は、後ろから腰を支えてやらないと、いまの母は上れないだろう。
母は「連れて行ってくれんか」ともう一度言って、「ほんまに最後じゃけえ」と付け加えた。

車で母のふるさとに向かったが、とちゅうで母とカズキは具合が悪くなり、ドライブインに立ち寄った。

ほとんど背負うようにして母をベンチまで連れていった。車酔いに加えて、右膝も痛いのだという。
二人並んでベンチに座ったカズキと母を見ていると、これ以上のドライブは無理かもしれないな、という気がした。

僕はベンチに向き直って、母に言った。
「今度はもっと大きな車を借りるから、墓参りはまたにしよう」
母はうなずくでもかぶりを振るでもなく、膝をさすりながら言った。
「遠いのう……」
「うん、やっぱり遠いよ」
「遠いところから嫁に来たんじゃなあ、ほんまに、なんのご縁があったんか知らんけど」

「うちの家系は若死になんかなあ。健作兄ちゃんが七十一、二郎兄ちゃんが六十五、弥生子姉ちゃんも七十前じゃったもんなあ……八十、九十があたりまえになっとる時代に、早いわなあ」

母の声がカズキに向いた。まなざしからは、いつもの険は消えていた。
「なあ……ほんまなあ……ほんま……」
つづく言葉はため息にまぎれてしまった。まなざしもカズキからはずれ、右膝をさする手の動きが少し速くなった。
「クーラーの効いとるところにおったら、すぐに痛うなる」
つぶやく声に、涙がうっすら交じった。
「ほんまになあ、痛うて痛うて、かなわん……ちぎってしまいたいぐらいなんじゃ、ほんま……」

「帰ろう。また今度、連れて行くから、今日はもう無理せずに帰ろう」
「……今度いうて、いつになるんな」
泣きだした。 「なあ、いつ連れてってくれるんな、いつ帰ってくるんな、なあ、約束できるんか?約束してくれるんか?」
母は声をあげて泣いた。 
「痛い痛い痛い痛い、ほんまに痛い、痛い痛い痛い!」と子どものように繰り返して、膝を力任せに叩きはじめた。
「ちょっと、お母ちゃん、やめてよ」
あわてて止めようとした、そのとき――カズキが母に抱きついた。おばあちゃんの膝をかばって、一発、頭の後ろを殴られた。
母はとっさに腕を縮め、顔色を変えた。カズキは母の膝を抱きかかえたまま動かない。いや、違う、動いているところが一つだけあった。カズキは母の膝をさすっていた。そっと、小さく円を描くように、カズキの右手はおばあちゃんの膝をさすっていたのだった。
母は背筋を伸ばして、そっぽを向いた。唇を真一文字に閉じて顎をツンと持ち上げて、涙の残る目で遠くをにらみつけた。だらんとたるんで皺だらけの喉が、ひくひくと動く。
カズキはまだ起き上がらない。体をおばあちゃんに預けて、一心に膝をさすりつづける。
「やっぱり……がんばって、海まで行こうか」
僕はうつむいて言った。母のふるさとは小さな漁村だが、海岸線に沿って少し走れば海水浴場がある。民宿の一軒ぐらい見つかるだろうし、部屋が空いていなければ、そのときは、そのときだ。

お時間の許す方は→http://www.nakamura.ed.jp/admission/mondai/2007/H19_2-2_Ja.pdf 大問四が重松清「海まで」の出題文です。

重松清氏は、1963年3月6日岡山県久米郡久米町(今の津山市で美咲町の隣町です)の生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科。 角川書店の編集者(みうらじゅんなどの担当)。フリーライターとして独立、ドラマ・映画のノベライズや雑誌記者、ゴーストライターなどで糊口を凌ぐ時期があった。岡田幸四郎など20以上のペンネームを持ち、その中には女性名・外国人名も含まれる。岡田有希子が自殺の4日前に出版したフォト&エッセイ集『ヴィーナス誕生』も、文章部分は(聞き書きによって)重松が代筆。R18作品は意外と知られていない。ex.「愛妻日記」^^;。

郷愁nostalgia浸るのはひとまず本日までにてm(__)m
 
 
それでは皆様、
あ 有難いなあ
し 幸せだなあ
た 楽しいなあ
 
わがままではなく、ありのままに(^^)
都会の人も食材の自給を楽しみましょう(^_^)v
読んでくださってありがとうございますm(__)m
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