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アメメまたまたまたまた!、「喪中」の調べ学習 2014-01-06 [好きな言葉や拙見]

目覚めると雨、そのぶん暖かい。
年始の転寝の日以来、赤外線炬燵のある和室の下の間を寝所としている。
ベッドのときよりも広々と快適な面と、
ベッド・マットの絶妙のフィット感が失われて腰に来る面と、
何事も一長一短。
そんなことよりも、 
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またまたまたまたアメメが!
部屋の隅にトイレシーツを敷いてやったのに、わざわざ炬燵カバーに。
その場所に付いた自分の臭いでやっちゃうのでしょう。
私たちが本屋さんで催すのと同じみたいな。

今朝最初の家事は炬燵に掛けていたペット用ベッドカバーの洗濯(;_;)
2m×2mよりも広いので洗濯機が上手く回らない。
手で助けてやりながら何とか洗濯して干した。
乾くまで、炬燵布団が無防備。
トイレシーツ・ワイドを炬燵布団のその場所にセット。 
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5にゃんズで大変なのじゃあなくて、すべてアメメに因んでいる。
 
お目直しに、
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美しいお菓子をいただいたので掲載。
竹久夢二は岡山県の旧 邑久郡本庄村生まれ。
学生時代に京都市左京区の吉田山の西山麓?にあった「夢二」という小料理屋に連れて行ってもらったのを思い出し、ネットで検索しても出てきません。隠退してから、仕事時代より前のことを数十年振りに思い出すことが増えました。
 
あっ、お菓子の中身を撮り忘れて食べてしまいました。 
 
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古い足袋。実は昭和35年に亡くなった曽祖父の足袋が実家の箪笥に仕舞ってあったのを、所望して戴いてきました。スリッパ代わりに履く予定。
ご年配の読者の方には足袋と半世紀以上昔のラベル、懐かしいのではと。
 
 
【年賀欠礼挨拶状について調べ学習】
2014年3月に亡くなっていても喪中につき2015年の年賀状を出さず年賀欠礼ハガキを出す慣習に違和感を感じて「喪中」について調べてみた。

明治7年に出された太政官布告で下の表のように、忌(忌中)と服(喪中)の期間を細かく規定。1947年(昭和22年)にすべて撤廃されているが、慣例で今もこの太政官布告が一つの目安にされているもよう。

【太政官布告「服忌令(ぶっきれい)」(昭和22年廃止)】
死者続柄 忌中 服=喪中
父母 50日 13カ月
養父母 30日 150日
50日 13カ月
20日 90日
嫡子(息子) 20日 90日
その他の子(娘)10日 90日
養子 10日 30日
兄弟姉妹 20日 90日
祖父母(父方) 30日 150日
祖父母(母方) 30日 90日
おじ・おば 20日 90日
夫の父母 30日 150日
妻の父母 なし なし
曾祖父母 20日 90日
10日 30日
従兄 3日 7日
甥姪 3日 7日

忌は神社への参拝、家庭のまつりを遠慮する期間
服は精神的に故人を偲ぶ期間

明治維新政府が中央集権国家となるためには、こんなことまで法令できめなくてはならなかったとはご苦労さんというか、何らかの規範が求められていたのでしょう。

これを踏襲して現代でも、父母の死亡に際しては七七忌(四十九日)までが忌中、一周忌(一年間)までが喪中とされることが多いもよう。
この期間は、門戸を閉じ、酒肉を断ち、弔せず、賀せず、音曲をなさず、嫁とりをせず、財を分かたずというのが本来のしきたりでした。
現代では四十九日法要=満中陰法要(仏式)や五十日祭(神式)を終えると普通に楽しく過ごす家庭が多いようです。
なのに、年賀状だけ「喪中につき」というのは、やはり形式的すぎて何だか変な気がするのは私だけでしょうか。

ここで年賀状と年賀欠礼挨拶状の歴史を少し
1881年(明治14年)「葉書をもって親戚旧故への年始の祝詞を送る風習、年々いや増して・・・」と「中外郵便週報」1月3日付け。
1898年(明治31年)英照皇太后(明治天皇の嫡母・孝明天皇の女御)の大喪に際し年賀欠礼の書状が官吏レベルで散見。
1915年(大正4年)昭憲皇太后(大正天皇の嫡母)の大喪で年賀欠礼の挨拶状が多数。この時代はあくまで皇室の大喪に限られていた。
戦後、お年玉年賀葉書の大ヒットで年賀状の風習が一般家庭に広まり、
昭和30年代に「喪中ハガキ(年賀欠礼ハガキ)」も一般家庭に普及したもよう。
私の子ども時代、田舎では徹底されていなかった記憶。年始に届く喪中ハガキも普通にありました。それをわるく言う人もおらず。

話を戻して、この「喪中ハガキ」の普及に伴い、身内の喪中は全部1年間という間違いも定着したもよう。確かに、祖父母や妻の父母が亡くなっての喪中ハガキを受け取ったことがあります。

ところで、調べ学習の過程で、年賀状のマナーとやらも、私の学生時代に比べて雪達磨式にどんどん枝葉が増えて形式化=形骸化が進んでいることを知りました
 
いちばん笑けたのは、こちらが出していない上司からの賀状の返礼には、「早々に賀状戴き」は厳禁と書いてあったこと。何食わぬ顔をして、返礼ではない文面で松の内の間に出すのが良い、などとその道のプロが指南している。
おまえは虚礼のプロじゃ。

さらに、「賀正」「迎春」「新春」など「謹んで」という文字が入らない賀詞は目上の人や上司には使わないようにとも。
これも、なんじゃ? 
金粉入りの美しい筆跡で「頌春」などと書かれていてごらんなさい、
これのどこが失礼なんじゃ。
本文でいくらでも敬意は込められる。

年賀状は松の内が終わる1月7日までにというのも勝手に定着しつつあるが、松の内は1月15日まででしょう。少なくとも岡山ではそうですよ。どんど焼き(地元では「とんど」と呼びます)も15日か地方により14日でしょう。1月7日で松の内が終わりというのは、調べると徳川幕府が勝手に変更したけど江戸界隈にしか広まらなかったみたいです。(とにかく文化に政治や役所が介入したら碌な事はないのです、目先のカネ目当ての団体さんたちよ。もしも滅びる文化があってもそれはしようがないのです。潰れる銀行・企業があれど救ったら駄目、不要だから潰れるのです。念のため、潰れても死んだりしません、お勤めから解放されて自由を謳歌できますよ(^O^))
ゆえに15日までは年賀状で問題無しですよ、特に西日本の皆さん。

マナーの専門家の肩書で、形骸化したり誤っている作法や言われをしたり顔(顔は見えませんが)で書いている方たちの言葉を真に受けて、それをまた馬鹿娘とかに伝える馬鹿母という、伝統の途切れた悲しい家庭が増えているのでしょう。(だから、次世代の党が惨敗したのか。でも平沼赳夫氏は圧勝でした、これぞ人間党)
形だけ真似るのじゃあなくて、その始まりを理解することが大切。
その上で、一人ひとりが自分の判断で実践するくらいには賢くなりましょう。
それが許されているのが今の日本の良いところなのですから。 
 
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アメメ「「空気」に支配されたままの日本にデモクラシーは機能しないぞ。それより、艱難汝を玉にすだ」

ojioji「御託を並べてないで、おしっこはトイレにしなさい!」 

 
 
それでは皆様、
あ 有難いなあ
し 幸せだなあ
た 楽しいなあ

都会の人も食材の自給を楽しみましょう(^_^)v
読んでくださってありがとうございますm(__)m
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